「才能」とはなんでしょう、どう開いていけば良いのでしょう、そしてそれをを開くための鍵とは一体なんなのでしょう。「才能は限りなく開く」というテーマを中心に話が進んでいきます。
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正しい課題を見つけて 、課題がはっきりしていても、舞台上でその課題を達成しようと演技してしまったりすると、結局全部ウソになってしまいます。人と言うのは生きてる状態でしか、真実というものを届けられません。
スタニスラフスキーはこう言っています。「俳優が舞台の上で、ありのままの人間ではなく、俳優という労働するような状態になってしまうと、それは作品も役も殺してしまう」。なので、常にありのままでいなければいけません。ただ、置かれている状況が違うだけです。
演出家として、こういうワーリャ(桜の園の登場人物の1人)になってほしいとイメージを作ってしまうと、その俳優のことを壊してしまうことになります。どんなワーリャになるかなど分かりません。どんなガーエフが生まれるかも分かりません。そこが面白いのです。
また女優自身がこういうワーリャだという結果を見てしまっていたり、あらかじめ知ってたとしたら、それは型を作ってしまうことになります。それをやってはいけません。
大体の人は、私は劇作家(ここではチェーホフ)が書いたロパーヒン(作品に登場する役)になるんだと思ってしまいます。私はロパーヒンではない、劇作家が書いたものが本物だと。そしてだんだん、その死んだ像に従うようになり、それが自分をコントロールし始め、その結果「生きていない人」になってしまいます。
スタニスラフスキーは、そうやって自分自身のことを殺すことが、戯曲そのものをも壊すことになると言っています。
大抵の俳優は劇作家(チェーホフ)に従うということを決めてしまっています。書かれたラネーフスカヤ(作品に登場する役)は死んでるものです。だから今まで上演されてきた桜の園のラネーフスカヤは、大体死んでるし、大体似ています。美しくて、叙情的で・・・。でもそれらは嘘、嘘、嘘です。死んでるから嘘なんです。
チェーホフは俳優にそのようなマスクをして欲しかったのではなく、生きた人間にこれをやって欲しかったのです。
チェーホフさんありがとう、でもこれは私ではありません。私は生きているから、生きたものをやりたいのです。愚かかもしれないけど、でも生きています。チェーホフよりも才能はないかもしれないけど、でも私は自分自身でいて、生きた存在のままでいたいのです。
もちろんチェーホフが書いてくれたセリフはしゃべります。でも私は私が理解するようにしかしゃべりません。セリフの中に込められている考えは、私自身のものです。チェーホフが考えたものとは違うかもしれない。でも私がやりたいようにやるのです。
生活のことを考えることは誰でもできます。でも「生きてる」という皮膚感覚、体感を持っている人はほとんどいません。哲学者も人は「存在すること」自体できていないと言っています。存在しているという感覚がないのです。
スタニスラフスキーが教えていることは舞台上で「生きる」ということ、「全身」で「全存在」で全てのことを感じ取る感覚を持って、舞台に出ることを教えています。
セリフを覚えた俳優が舞台に出てきて、乗り越える障害が何もない状態。そして相手もただセリフを言うだけ。それだと何を見せられているのでしょう。見せるものが何もない。ただ、生きてない死んで冷めたような状態を見せられています。
そういう芝居の一番面白い瞬間は、セリフを忘れた時です。あるいはハプニングで小道具が落ちた時。アクシデントが起きた時に、ちょっと生活が生まれます。
チェーホフが芸術座の稽古で俳優達に、もっと単純にと言い続けていたのは、実際は自然にそこで起こることだから、それを表現しようと演技する必要はないという意味で言っていました。
そういう意味でチェーホフの作品は、そのまま流れに乗せていれば、勝手に演じられていきます。余計なことを何もしなければ、自然と流れていくのです。
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「才能」とはなんでしょう、どう開いていけば良いのでしょう、そしてそれをを開くための鍵とは一体なんなのでしょう。「才能は限りなく開く」というテーマを中心に話が進んでいきます。
前半に引き続き、スタニスラフスキーシステムについての話が続きますが、後半では人間が持つ五感、視覚、聴覚、味覚、皮膚感覚、嗅覚、そして内的な五感、内的な聴覚があるという話題から話が進んでいきます。(約2時間)
キャスティングや、色々な芝居に出られるようになることよりも、それぞれの人が、元々持っているその創造活動の部分において、どのように生かされていくのか、そこにしか興味がないというところから話が進んでいきます。(約1時間半)
チェーホフは200年後の人にしか演じられないと言ったのは、その言葉の背後に込められた、繊細な見えない優しさを表現することができないからというところから話が始まります。